このページは愛知県陶器瓦工業組合の許可を得て、同組合のホームページを引用させていただきました
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●江戸のニューメディア「瓦版」
瓦はセラミックスとしては最も長い歴史を持っているものの一つである。現在、ICの基板をはじめとしてさまざまなセラミックスが使われている。こうした新しいセラミックスは、瓦など伝統的なセラミックスに対してファインセラミックスなどと呼ばれ、瓦の子孫は活躍しているわけであるが、その姿は大先輩である瓦にとって頼もしくもあり誇りでもある。しかし瓦の長い歴史の中で瓦自身が情報メディアとして活躍したこともあった。
わが国における新聞のルーツは瓦版(かわらばん)で、1615年の大阪夏の陣を伝えたものが現存する最古のものであると言われている。瓦版はこうした大事件、火事、地震などのニュースを絵入りの1枚刷りで販売された。なぜ瓦版というかははっきりしていないが、初期の頃は粘土を焼き固めた瓦のようなものを板木の代わりに使っていたことからきているという説もある。
これが事実だとすると粘土に字や絵を彫り、これを焼いて瓦にして原版とした画期的な印刷システムであったと言える。彫るためきっと黒の部分に白で文字が浮き出るといった昔の青写真と同様なものであったに違いない。また刷り方にしても板木としての瓦に墨を塗ってその上に紙を載せてこするといった方法ではなく、ちょうど拓本を採るように、墨を塗らずに瓦の上に紙を載せ、墨を付けたたんぽで叩くといった方法で印刷したのではないかとも考えられる。
しかし瓦版といった名称が一般的になったのは、明治以降のことであり、それまでは街頭で大きな声で読みながら売っていたいたことから、読売(よみうり)という名で知られていた。ちょうど大きさが瓦と同じ程度であったので収集家達が、その大きさから瓦版と言うようになったとも想像できる。
瓦版で瓦が使われなかったにしても、さらに昔の古代バビロニアでは、実際に瓦がメディアとして使われていた。瓦書あるいは粘土板文書と呼ばれるもので、沖積土を練り固めてこれにアシの茎などで文字を書き、天日で乾かしたもので、場合によっては窯で焼き、瓦のようにしたものである。最古のものとしては紀元前3100年頃のものが発見されている。
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●重さの単位として使われた瓦
長さの単位であるメートルを米、平方メートルを平方米といった表記はまだ使われている。さらにミリメートルは粍、センチメートルを糎というように毛、厘といった伝統的に使われてきた単位の漢字と組み合わせて、新しい漢字まで作ってしまっている。これは縦書きの文書にセンチメートルは馴染まないということからもきている。またワープロなどのために、1字で表示できる_、`、aやmm、Kgなどの単位記号も用意されている。さらに平方米は訛ってヘーベと呼ぶまでに日本語化しまっており、ツボと同様に日本特有の建物の面積の単位と勘違いしている日本通の外人もいるほどである。
いっぽう容積の単位であるリットルは立と表記される。これも米と同様、リットルの音訳からきたものであるが、3次元である立方となぜか一致して馴染みがよい。リットルにもやはり竓、竰、竕といった漢字が作られている。
重さの単位であるグラムは、瓦として表記されてきた。これもグラムという呼び方に瓦のガやグワが近いことからくる音訳であるが、さらに文字をくずした時にgに雰囲気が似ていることからもきているものと思われる。さらにわが国の重量単位であった匁とも瓦という文字がやや似ていることも、他の同音の漢字をさしおいて瓦が選ばれた理由になっているとも想像できる。
しかしメートルと違ってグラムとして瓦の表記は、今ではほとんど行われていない。瓦を使って日本で作った重量単位のための漢字は次の7つである。このうち(*)印を付した単位は使われることもない。
瓱(ミリグラム) =1グラムの1000分の1
甅(センチグラム)=1グラムの100分の1 (*)
瓰(デシグラム) =1グラムの10分の1 (*)
瓧(デカグラム )=1グラムの10倍 (*)
瓸(ヘクトグラム)=1グラムの100倍 (*)
瓩(キログラム) =1グラムの1000倍
瓲(トン) =1キログラムの1000倍
ちなみに瓦1枚の重さは、普段使う桟瓦で2.6瓩程度である。実際の瓦はグラムとしての瓦の2600倍の重さがあることになる。
グラムは、小さい重さという意味のギリシア語grammaから由来している。漢字表記の場合はグラム(瓦)が基準となり、瓩、瓲などが派生している。物の大きさや量はMKS単位系によって表すと定められ、規格としての国際標準はISOによって、日本ではJISによって同様のことが定められている。これによると、重さを表す質量の基準は`グラムなっており、1グラムは1000分の1`グラムとなる。参考に、長さの基準はメートルである。
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●瓦とタイル
瓦というと一般には屋根瓦をさしていると思われがちであるが、屋根瓦だけでなく粘土製の比較的小さな板を瓦と呼んでいる。床に敷く瓦や土塀をつくるための瓦もある。
粘土製の小さな板で屋根だけでなく、床にも壁にもとなると、タイルとどう違うかということになる。英語では屋根に葺く瓦も壁に張るタイルもTileで全く区別されていない。屋根を瓦で葺くことをタイリングと呼んでいる。いっぽうわが国でタイルという用語が共通に使われるようになったのは、1922年に開催された平和記念東京博覧会からである。それまでは敷瓦、甃、平瓦、腰張瓦、壁瓦、化粧煉瓦などさまざまな呼び方がされていた。当時のタイルは陶器店や金物屋ルートで販売された。これはタイルメーカーの生い立ちとも関係している。タイルの国産化を始めたのは、窯業の中でも陶器や硬質陶器さらにレンガメーカーであった。また瓦施工も煉瓦工や左官から出発したものが多い。
明治時代に陶器メーカーではなく瓦メーカーがタイルの国産化を始めていたならば、瓦そのものも現在のものとは随分と違ったものになっていたかも知れない。しかし最近では瓦メーカーの製品多角化の努力もあって、インテリアにも使えるようこれまでとは形状の異なった瓦や、仕上げが違う瓦が登場してきている。今ではまったく同じ様なものを瓦メーカーが製造すると瓦、タイルメーカーが製造するとタイルと呼ぶといったところまできている。
今後ますます瓦とタイルの世界は限りなく近くなるに違いない。瓦メーカーの努力いかんによっては、将来タイルを漢字で表記すると瓦というようになる時代がやってくるかも知れない。
世界最古のタイルは、エジプトのサッカラのステップピラミッドの中の小室のもので、青色の釉薬が施されている。このタイルは紀元前3000年頃のもので、タイルは5000年以上の歴史がある。
瓦の施工も土を使った湿式から乾式工法に変わってきているが、タイルの施工もハンギング・タイルなど乾式なものも多くなってきている。このハンギング・タイル、もともとはイギリスで煉瓦の代わりに登場したものであった。ジョージ三世の時代の1784年イギリスで煉瓦税なるものが創設され、煉瓦そのものを大きくさせたり、外観を煉瓦に似せた現在のハンギング・タイルのような外壁下見タイルの使用を増大させた。1850年にこの税も廃止され、煉瓦の大きさは使いやすい大きさに戻った。そして外壁下見タイルも使用されなくなった。
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●煉瓦と瓦
煉瓦は1万年以上にも及ぶ歴史を持った最も古い人造建築材料である。今からおよそ4000年の昔、オリエント文明の発祥の地モヘンジョダロでは、赤煉瓦が建物から下水道まで、いたるところに使われていた。
現存する最古の日干し煉瓦は、ヨルダンのエリコで出土したたものであり、また最古の焼き煉瓦はインドのカリバンガンから発掘されている。これらの煉瓦は、アメリカのテネシー州ジョンソン市の古代煉瓦博物館に収蔵されている。
古代遺跡から発見されている煉瓦を焼いた炉は、量産は難しいが1000℃以上の高温で焼成するため耐久性、耐水性に優れた煉瓦が焼ける登り窯と、大量生産に向いた積み重ね式とがある。煉瓦を焼くには潅木などの燃料を必要とするが、それが得られない地域では、泥と切りわらとをまぜて作った日乾煉瓦を積み重ね焼成に用いた。これだと煉瓦自体が燃えるので、焼成に必要な燃料を特に必要としなかった。しかし焼成温度は600℃以上にはならないので、耐久性のある煉瓦の製造は難しかった。また紀元前2000年頃から中国で建設された延長2400kmにもおよぶ万里の長城でも重要な部分は煉瓦で被覆されている。
日本で最初に煉瓦が作られたのは、1851年(嘉永3年)佐賀藩の築地反射炉建設に使われたものである。ペリーが来航したのはこの3年後であり、その時幕府は公儀御用鉄製砲200挺の発注を佐賀藩にしている。反射炉用の煉瓦は有田焼の登り窯で用いられた淡灰色粘土と、さらに浅黄色粘土が使われ、武雄で焼成された。その登り窯は戦後道路工事中に発見されている。さらに現在でも保存されている韮山反射炉建設のため、1854年(安政元年)から耐火煉瓦の焼成を始めた登り窯も天城山中梨本村小川に現存している。この登り窯は明治維新後工部省に引き継がれ1889年(明治22年)まで稼働していたという。
明治時代に入ると、日本でも煉瓦が大量に使われるようになった。赤煉瓦による洋風建築だけでなく、トンネル、橋脚、護岸、水道などにも煉瓦が使われた。赤煉瓦は文明開化の象徴でもあった。煉瓦の製造は比較的小資本でも可能で、また瓦と同じ原土が使えるため各地に煉瓦工場ができた。しかし1923年(大正12年)の関東大震災によって、京浜一帯の煉瓦建造物は倒壊し、耐震性のない煉瓦造の弱点を露呈した。その後は耐震性のある鉄筋コンクリートが主役となり、煉瓦は構造材ではなく装飾材としてもっぱら用いられるようになった。
岩手県遠野にある日本最北の瓦メーカーは、現在でも瓦とともに煉瓦を製造している。また沖縄の赤瓦メーカーでも、化粧煉瓦の製造をおこなっているところが多い。
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●瓦の起源
かわらの語源はサンスクリット語のカパラからくるといった説や、屋根の皮の意味からきたという説、さらに亀の甲を「かふら」と呼んだことからきたという説などさまざまである。サンスクリット語のカパラは、覆うとか頭蓋骨、陶片といった意味をもっている。カパラが中国、朝鮮を経てわが国に至る間に訛ってカワラになったのだという。
サンスクリット語が日本語になった言葉は結構多い。漢訳仏典を通じて入ってきたものであるが、旦那はダナパティ、刹那はクサナ、卒塔婆はストーパからきたものである。しかし瓦という漢字は、中国ではカワラとは呼ばないこと、また古代インドで瓦は見かけられないこと、さらに瓦が仏教とともに中国から伝来したものであることを考えると、カッパラがカワラの起源とは考えにくいと言える。
瓦が伝来した頃はおそらくグァと呼ばれたであろうが、瓦という文字は瓦とともに中国からやってきている。それがおそらく平安時代頃からグァがカワラへと変わっていったようである。
瓦の歴史はきわめて古く、中国では紀元前2000頃にはすでに瓦が登場している。中国4000年の歴史とよく言われるが、瓦も4000年の歴史を持っている。中国語の瓦という字は、粘土を焼いたものの総称である。瓦は、煉瓦や土器もそうであるが人間が化学変化を利用して製作した最初のものである。どうもそのアイデアは、火を使うようになった人間の祖先が、火を焚いた下や回りの土が焼かれて、赤くなり強くなることを発見したことから始まるようである。最初は強くしたい壁や床の部分に粘土を塗り、火を燃やして焼き固めるといった方法から始まったようである。これが土器に発展し、さらに瓦が登場するようになったわけである。さらに漢の時代になるとシルクロードを通じてペルシャから釉薬技術も入ってきて、ちょうど日本の飛鳥時代にあたる隋唐の時代には、耐久性のある釉薬瓦も製造されるようになった。
また瓦の形状は初期のものは、アールのついた平瓦を上下に組み合わせて葺くものであった。こうした葺き方は現在でも中国で見ることができる。丸瓦が出てきたのは紀元前700年頃の春秋時代になってからである。下に平瓦、その上に丸瓦といった本瓦葺きの登場である。しかしこの時代、丸瓦の軒先部分の飾りは半円形であった。これが現在のように円形になったのは、漢の時代になってからである。
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●瓦の伝来
瓦が日本の伝来したのは1400年以上前、飛鳥時代の始まる少し前である。中国から朝鮮を経由して伝来したという記録が残されている。百済から588年に僧・寺工・鑪盤博士・画工とともに4人の瓦博士が渡来したという記録が日本書紀にある。なぜ4人なのかというと、窯を築く、粘土を成型する、焼く、葺くの4工程のスペシャリストであったと言われている。はたしてそうだったかどうかはわからないが、「博士」というその後に定着した意味から考えると、鑪盤を造る鋳造技術と瓦を造る焼成技術は、この時代を飾る最先端技術であったことだけは確かである。
瓦は寺院建築とともに入ってきたといえる。仏教が伝来したのが552年だから、それに遅れること僅か36年である。その時代における先行する文化の縄文、弥生そして古墳時代にも、土器を造るなど土を焼くという同じ技術を持ちながらも、外国人を呼んだのは、寺院建築の建造システムを丸ごと輸入しようとしたからであろう。瓦は寺院建築という新しい建築システムの単なる部品でしかなかったのであろう。
日本書記では588年が瓦元年であるが、遺構をみると法興寺より古いとされている向原寺などからも高句麗系の瓦が発見されており、高句麗系の瓦工がすでに渡来していたとする説もある。明治期の鉄骨の建材や板ガラスの場合も外国人を呼んで造り始めたのであるが、これ以前にもかなりイギリスやドイツから輸入材を買っていた。当時瓦は中国や朝鮮にとっても貴重品、たとえ重量があっても最初は現地で作ろうとは考えなかったであろう。これらを考え合わせると、588年は瓦の国産化元年ということになが、国内の技術者による本格的な国産化は607年に建立された法隆寺で、百済から渡来した瓦博士の手を離れ、わが国の瓦大工が独自の技術で瓦を製造したと言われている。
奈良時代に隆盛を極めた瓦はその後全国規模で展開した。その痕跡は全国津々裏々で発見される窯跡によって知ることができる。しかしこの時代のものは寺院、宮殿などの公共建築だけに使われ、デザインもいわば朝鮮製の忠実なコピーであった。コピーだけではそう長くは続かないのか、平安・鎌倉時代には瓦葺きは衰退した。次の室町・桃山時代には技術的工夫もされ品質もよくなった。とくに桃山時代の城郭建築にはなくてはならない存在となった。しかしここでも外国人に負うところが大きく、日本独自のデザインのものができたのは江戸中期の桟瓦の発明を待たなければなかった。
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●日本人が発明した桟瓦
日本独特の瓦である和瓦は左側に小さいうねりがあることが、ちょうど障子の桟に似ていることから、桟瓦と呼ばれている。瓦がわが国に伝来してから約1000年もの間、瓦葺きは寺社建築や城郭建築に限られてきた。
江戸はしばしば大火にみまわれてきた。草葺きや板葺きに比べ、瓦葺き耐火性に優れている。しかし武家の威厳を保つため、町人の住まいにはさまざまな規制を行っていた。その一つが瓦葺きの禁止であった。頻繁に起こる大火に見かねて、平瓦だけで屋根を葺くといった方法で対応する商家が現れ始めた。こうした屋根は火除け瓦と呼ばれた。
瓦の一般への普及の疎外要因は、瓦葺き禁止令だけではなかった。平瓦と丸瓦による本瓦葺きは、重量がありそれを支える建築にもそれなりの配慮が求められた。そのため瓦葺きができる建物には制約が出てくる。こうした問題を解決するために出てきたのが、平瓦と丸瓦を一体化させるといったアイデアである。1600年代に登場したのがローソク桟瓦と呼ばれるものである。初期のローソク桟瓦は、京都の大徳寺の東司(便所)や大光寺正受院表門などに遺されている。
われわれが瓦として、まず想像するのは和瓦と呼ばれるもので、その形状はわが国独特のものである。和瓦は桟瓦とも呼ばれているが、これを発明したのは西村半兵衛で、三井寺の瓦工として10年の歳月を費やして作りだしたと言われている。しかし彼が発明したのが現在見られるような桟瓦であったのか、ローソク桟瓦であったかは定かではない。また彼は軽量の瓦を開発するため江戸に火除け瓦を見に行き、これをヒントに桟瓦を開発したとも言われている。当時この桟瓦を関東では江戸葺瓦、関西では簡略瓦と呼ばれていた。
ローソク桟瓦は上下で重ね合わせるため、平瓦に付けられた丸瓦部分は下が大きく上を小さくなっている。ローソク桟瓦と呼ばれるのもこの上下の大きさの違う円形の丸瓦部分からきている。さらに上下左右の重なり部分からの雨漏りをなくすため、丸瓦部分に切込みをつけ、さらにこれと対角の平瓦の部分に同様に切込みを付けるようになった。
1720年3月の江戸の大火がきっかけとなり、幕府により江戸の民家の瓦葺き奨励の布告が出された。さらに1723年には現在の住宅ローンに当たる10年年賦の拝借金制度が、瓦にも適用され一般町人でも利用できるようになった。この時から桟瓦は江戸市中に普及していったが、全国に普及するようになったのは、明治時代になってからであり、はじめは都市部からそしてしだいに周辺部へと及んでいった。
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●歴史に残る珍しい瓦
・日本最古の瓦 朝鮮から渡来した瓦博士が造った飛鳥寺(法興寺)の創建瓦は昭和31〜32年の発掘調査で発見されている。飛
鳥寺は蘇我馬子の発願により建立され、一つの塔と三つの金堂よりなる伽藍配置だったという。
この時の瓦の製造は、飛
鳥寺から約75m離れた小高い丘に作られた登り窯であり、これがわが国最古の瓦屋(がおく=瓦製造工場)であったと言わ
れている。
・瑠璃色の瓦 767年、平城京東院の玉殿に瑠璃の瓦を葺いたという記事が「続日本紀」にあり、今世紀になってから始まった平
城京の発掘調査では、実際にその東院から唐三彩をまねた三彩瓦や緑釉を施した瓦が出土している。古代人の色彩感覚
は我々が想像する以上に情熱的だったのかも知れない。そういえば古代ギリシャのパルテノン神殿はすべて原色が塗り施
されていたという説もある。しかも屋根は同じ瓦葺だった。
・行基瓦
奈良時代に僧行基が考案したといわれる瓦で、遺構としては奈良の元興寺極楽坊本堂と禅室の一部があげられ
る。形はスペイン瓦に似たユニークなものだったが、全国でも例は少なく一般には普及しなかったようである。本瓦よりも製法
が 簡単であるのに普及しなかったのは、形が日本人好みではなかったせいであるとも言われている。
・黄金の瓦
織田信長は、1576年に安土城を築くさい、金箔を貼った瓦の製作を、明(当時の中国)人一観に命じた。彼は、瓦
を造るときに木型と粘土との間に雲母粉(きらこ)を使って粘土をはがし易くする技術と、いぶして焼く方法をもたらし、わが国
の瓦の製造技術を飛躍的に進展させた。安土城は、完成後4年目で失火により全焼したので当時の有り様は詳細にはわか
らないが、出土品から推察すると金箔を貼った瓦は主として軒瓦などの役瓦だけであったらしい。
・日本型スペイン瓦 スペイン瓦は上瓦と下瓦に分かれている。大正の末にスペイン瓦の流行に刺激されて愛知県の三河地方で
造 られた瓦は、上瓦と下瓦を一体化させた。S字型をしているところからS型瓦と呼ばれる。
・ジェラール瓦 明治初年にフランス人ジェラールは、洋風建築に使う瓦の需要を見越して横浜でフランス瓦の製造を始めた。彼
は明治政府の雇ったお抱え外国人のひとりであったが、先駆的に機械力を使う近代設備を持った製瓦工場を作った。わが国
の一般の瓦業者が近代設備を導入するのは、ジェラールに遅れること50年経ってからである。
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●屋根のデザイン
建築の尺度には、いまだに尺貫法が残っており、むしろそちらのほうが話の通りが良いということが多い。勾配はその典型で、すべて尺貫法である。たとえば、水平長さ一尺、高さ5寸の勾配を5寸勾配と呼んでいる。ただし金属などの厚みの薄い屋根葺材では、あまり問題にならないのであるが、瓦のように厚みのあるものを葺き上げた場合には、実際の屋根葺材の勾配が理論上の屋根勾配よりも少なくなる。この低くなった分の勾配を戻り勾配という。たとえば桟瓦では7〜8分の戻りがある。ところで屋根材にはそれぞれ標準的な勾配が決っている。カラー鉄板、アルミなどの金属板葺は、2〜3.5寸勾配であるし、カラーベストは3.5寸以上、瓦葺なら4寸以上である。屋根勾配は急なほど水はけがよいが、あまり急勾配だと施工や補修が難しくなる。最近は急勾配な瓦屋根がはやっており、施工屋さん泣かせである。
住宅の屋根の形状には、切妻、寄棟、方形、片流れ、入母屋、越屋根、陸屋根などがある。これらの形を基本として部分的に組み合わせたものや、下屋、庇など変化を加え極めて多様な屋根が作り出されている。さらにヴォールトやドームなどのアールのついた屋根形状も住宅で使われ始めている。こうしたアールはもっぱら洋風と思われがちであるが、日本にも古くからあり、反りとむくりなどがそれである。反りは入母屋御殿でよく使われるが、現代の住宅ではあまり使われない。むくりはデザイン手法としてややはやっている。工事はやっかいでコストもかかるが、形は優美で、金属やカラーベストの屋根にも使われている。
屋根の細かなテクスチュアは屋根材の葺き方によって決まってくる。カラーベストの葺方の多くは横葺である。カラー鉄板、アルミ、銅板など金属屋根は、横葺、瓦棒葺や折板葺などがある。葺き方はテクスチュアといった表情を作り出すだけでなく、耐久性、施工性とも関係した構法的な重要な要素であるので、さまざまな葺き方の工夫がなされている。瓦の場合、神社やお寺などでは平瓦と丸瓦を組み合わせて葺く本瓦葺きが用いられるが、住宅では桟瓦による丸十軒瓦葺きや一文字瓦葺がほとんどである。
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●さまざまな屋根材料
普段なにげなく街を歩いていても気づかないが、遠くまで旅行した時、電車の窓から風景を見ていると、あらためて屋根の色、かたちの種類の多さに驚いてしまう。それでもなかなか材料までは関心が及ばないのが普通である。今度外へ出たときには改めて見てほしい。実にさまざまな材料の屋根があることに気づくにちがいない。その中でも代表的な3つについて比較してみることにする。
カラー鉄板は、いわゆるトタン板に合成樹脂塗料などを施したものである。この材料の魅力はなんといっても価格が安いことであり、平米3千円くらいのものである。戦後まもなく意欲的な建築家達によって設計されたローコスト住宅には欠かせない存在であった。昭和30年代までの住宅地は、カラフルなカラー鉄板一色であった。しかし性能面で熱の伝導がよく、錆易いし雨音がうるさいという欠点もあり、最近は影を潜めた感がある。
カラーベストは、彩色セメント板のひとつで石綿とセメントを主原料として成形したもの。価格は平米4千円程度で、色彩が比較的豊富で不燃材料なのが特徴である。モダンな色調と軽い素材感が一般受けするらしく全国シェアのほぼ4割を占めている。カラー鉄板がローコスト住宅とともに登場したとすると、カラーベストはプレハブ住宅とともに普及したと言える。
瓦は、これら2つの屋根材にくらべやや高く、桟瓦で平米5千円くらいである。社寺建築にみられる重厚感は日本瓦だからこそ感じられるものである。イメージだけでなく実際にも日本瓦は重量があり、この材料の欠点にもなっている。1400年の伝統を誇っているが、最近ではカラーベストなどに押されぎみである。
カラー鉄板、カラーベスト、瓦が屋根材料の御三家といったところであるが、この他にもさまざまなものがある。
アルミは、価格は平米6千円程度で比較的高級な材料であるが、軽くて光沢のある材質感からハイテック、ポストモダンといった最新流行のデザイン思潮とマッチしている。
銅板は、以前は高価であったために高級住宅に限られていたが、今日ではアルミなど他の材料に高価なものが増えたため、相対的に安くなっている。価格は平米8千円くらいである。数寄屋などにみられる緑青の吹いた銅屋根の美しさは、瓦屋根と同様やはり日本独特のものである。しかし最近は銅の精錬技術が発達し、ある程度の時間を経ても、緑青を吹かなくなっているのが残念である。人工的に緑青を発生させることも盛んなようであるが、天然緑青の仕上がりと較べるとかなりの差がある。
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●和瓦と洋瓦
現在日本で使われている瓦は、大きくは和瓦と洋瓦に分けられる。和瓦さらに本瓦葺と桟瓦葺とに分けられる。もっとも最近ではJIS規格などとの関係から、和瓦の桟瓦は、和形、本瓦は本葺き形というのが正式な呼び方である。
本瓦は、基本的には平瓦と丸瓦との組合せであるが、軒先、棟などにはさまざまな役物瓦が使われる。主としてお寺や神社などで使われている。平瓦の大きさは7寸×8寸(210mm×240mm)から9寸×1尺(270mm×300mm)といったものがある。屋根の大きさとのバランスで瓦の大きさは選択される。
いっぽう現在住宅で多く使われている桟瓦は、1674年に西村半兵が創案したといわれている。彼は若い頃から本瓦葺の瓦よりも軽くて、少ない費用で造れる瓦はないかと考え続けていた。あるヒントをもとに、本瓦葺の平瓦と丸瓦とを一つにまとめることに気付いた。それをどう造るのか、またどう葺くのか、工夫を重ね試作し続け実用化されるまでに10年の歳月を要したという。開発に10年を要するということは、当時としては一体化して製造するということが、かなり難しい技術だったに違いない。幕府の瓦禁止令によりすぐには陽の目を見なかったが、一般民家から使われ始め明治になって全国的に普及するようになった。
桟瓦の大きさはJIS(日本工業規格)できめられている。呼び方は49、53Aというように坪当りの必要な枚数をもとにしている。もっとも小さな瓦は64で280mm×275mmで働き寸法は220mm×250mm紙のA4サイズよりやや小さくアメリカのレターサイズといったところである。 瓦のJISが制定されたのは昭和29年であるが、このときはもっとも大きな瓦は56型であった。その後49、53A、53Bが遂かされている。JISで見る限り瓦の大きさは時代とともに大きくなっていると言える。
最近販売競争からお豆腐が大きくなってきているようであるが、これと全く同じ理由、メーカー間の競争から瓦も大きくなってきているのである。本来建物の大きさ、屋根の大きさから決まるべきものが販売競争から大きさが決ってきているとしたら残念なことである。
現在日本で使われている洋瓦は、S形、スパニッシュ形、フランス形などがある。一時はスッタコ調の壁に赤いスパニッシュ瓦といったスタイルが、洋風住宅の代表的イメージであったが、いぶし銀の和瓦を上手に使ったモダンな住宅が造られている。和瓦=和風住宅、洋風住宅=洋瓦といった単純なものではなくなってきている。
三州瓦CA研究所が開発を進めている卯立ルーフシステムも、この和形を使っていかに洋風化住宅にマッチさせるかをテーマにしている。
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●製法からみた瓦の種類
瓦は製法から大きくいぶし瓦、塩焼瓦、釉薬瓦、無釉瓦の4つに分けることができる。
(1)いぶし瓦
銀色瓦、黒瓦とも呼ばれる、いぶし銀のような色とつやをした瓦。焼成の最後の段階で燻化し、瓦の表面に炭素の微粉をつきさすように付着させたもの。以前はだるま窯を使い、200〜250℃で「あぶり」として10時間、さらに550〜700℃で「中だき」として6時間、850〜1000℃で「本だき」として2時間、同じ温度で2時間の「練らしだき」を行う。この段階で煙出し穴を閉じて、松薪、松葉などを入れて焚き口など全てを閉めて燻しを始める。炭素と水分が化合して炭化水素となり、瓦の表面に付着する。現在では重油のトンネル窯を改良した還元窯により、燻し瓦も大量生産されている。燻し瓦は1989年には全国で4億9200万枚ほどが生産されており、出荷金額は574億円ほどである。全国に約730の燻し瓦メーカーがある。
(2)塩焼瓦
焼成の最終段階で、食塩を投入して焼いた瓦で、吸水率が低く凍害に強く変色性も少ない。その色から赤瓦とも呼ばれている。
1100〜1200℃で10時間程行われる中だきの後、たき口から食塩と燃料を交互に投入する。投入される食塩は1万枚の瓦に対して160kgほどである。数回に分けて食塩を投入しさらに練らしだきを3時間程続ける。冷却は徐々に行い、火入れから9日目頃に窯だしを行うのが理想的であるとされている。投入された食塩は熱で分解されガス状となりさらに水蒸気と反応し、酸化ナトリウムと塩化水素に分解される。さらに酸化ナトリウムが粘土中の珪酸とアルミナと化合し、珪酸ナトリウムとなり、これが赤褐色のガラス状の皮膜となる。この化学反応プロセスは、複雑でその制御は難しいことなどから、塩焼瓦の生産量は減少している。
(3)釉薬瓦
成型・乾燥させた素地(しらじ)に釉薬をかけ、乾燥させた後に焼成させたもの。赤褐色、青緑色、うぐいす色などさまざまな色を出すことができる。
釉薬にはせっ器質の粘土に合った長石を主体とした高温用(1250゜C程度)のものと、一般瓦粘土に合った珪石を主体とした低温用(1000゜C程度)のものとがある。釉薬瓦だけの出荷統計はないが、釉薬瓦・塩焼瓦を合わせた出荷は、1989年には全国で、11億8028万枚ほどが生産されており、出荷金額は990億円ほどである。全国に約204釉薬瓦メーカーがある。
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●特殊な部分を葺く役瓦
軒瓦、袖瓦など特殊な部分を葺く瓦を役瓦あるいは役物、一般の部分を葺く瓦を桟瓦と呼んでいる。桟瓦は一つの建物で使用する数も多く、形状も役瓦に比べシンプルで量産しやすい。
役瓦はそれぞれ目的があって作られてきたが、あまりにも種類が多いと、製造の上でも、流通でもさらに施工の現場でも大変である。しかし役瓦は屋根のデザインに大きな役割を持っている。三州CA研究所が開発した卯立ルーフシステムも、平面の瓦は大量生産されている和形の桟瓦をそのまま使い、新しい役瓦をデザインすることによって、これまで和形瓦では対応されてこなかった都市型洋風化住宅のデザインにマッチするものを開発しようとしたものである。
卯立ルーフシステムではけらば役物と棟役物が開発されている。ここで役瓦と言わずあえて役物と呼んでいるのは、役物は瓦でなくてもよいと考えているからである。
他の屋根葺き材の場合、役物は違った材料で作られることが多い。さまざまな形状のものが要求されるので同じ材料で作るのが難しく、また現場合わせが必要なので、現場での加工のしやすさも要求される。このためイギリスには、牛乳パックのように折り目が付けられていて、折るだけで何通りにも使える金属製の役物シートがある。
瓦屋根のデザインを活かした、現場で加工し易い、施工しやすい役物が求められている。ここで代表的な役瓦の紹介をすることにする。
(1)棟部分
熨斗瓦(のしがわら)を重ね、その上に丸瓦(冠瓦)を載せる。棟の端部には丸止瓦がくるが、鬼瓦を使う場合もある。波状になった桟瓦と直線の熨斗瓦との隙間を埋めるのが櫛面土(くしめんど)である。棟が直角に曲がる部分にくるのが曲がり瓦、さらに寄せ棟などの降棟と大棟との接続部分にくるのは三ッ又瓦。降棟の先端はカッポンで納められる。
(2)けらば部分
切妻屋根の端のけらば部分は、袖瓦が使われる。これには左右勝手がある。軒とけらばとの角にくるのが袖角である。これには軒先が一文字なのか万十なのかによって種類も異なってくる。
(3)軒先部分
軒の部分くるのは軒瓦で、万十軒瓦、一文字軒瓦などがある。さらに寄せ棟などの隅の軒先には廻隅瓦(トンビ)や切隅がくる。
(4)谷部分
谷の部分には谷瓦が使われる。これにも左右勝手がある。
(5)その他
天窓用の角窓瓦、エントツ用の丸窓瓦、雪の落下を防ぐ雪止瓦などがある。
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●使われ続けてきた信頼
現在でも奈良の元興時の屋根瓦の中に、1400年前に渡来した瓦博士の造った法興寺の瓦が含まれているという。われわれを古代のロマンへとかきたてる話である。実際に1400年もの間、屋根に載っているのは耐久性が優れていることの証明とはなるが、一般の住宅ではこれほどの耐久性は意味がない。むしろ屋根葺き材料として1400年間使われ続けてきたところに意味がある。日本の風土に合わせたり、時代のニーズに合わせたりする努力をしてきたからこそ1400年間も使われてきたのである。瓦の1400年は工夫の積み重ねでもある。
ところで瓦屋根の欠点というと、まずよく言われることは重いということと衝撃に弱いということがあげられる。評価というのは難しくて、人間の評価などでもその人の欠点が、別の角度からみると長所でもあったりなどということは往々にしてある。瓦の場合、重いということが屋根そのものを上からしっかりと押さえつけ、風の吹き上げに耐えられるようになっている。また寺院に使われるような本瓦ならいざしらず、普通の桟瓦はかなり軽い。レンガと同じで一枚一枚のパーツによって構成される。修理の時も部分的葺替えでリフレッシュできるという利点も持っている。極端な話であるが、屋根に明りとりが必要になればガラス瓦に変えるといったことも可能である。
最近はあまり見られなくなったが、京都などでは雨落ちのところに古い屋根瓦で排水の為の溝を造り玉砂利を敷くなどの仕掛けが残っている。瓦はこのように本来の使命のあとでもさまざまな利用が可能である。わが国では1400年以上前のものが、中国では3000年以上前のものが発見されているのだから、土にもどるには相当の時間がかかる。しかしプラスチックスなどと違って粉々にしてしまえば土に戻すことができる。瓦産地にはシャモット工場と呼ぶ瓦を粉々に砕く工場があり製造過程で生じた破損品の資源再利用を行っている。しかし瓦の良さはなんといっても雨の中でしっとりと映える美しさにあると思う。とかく心沈みがちな雨の日に、われわれをなごませてくれるのは、6月の花あじさいと瓦屋根である。
美しい町並みの写真には、必ずと言ってよいほど瓦屋根の屋並が写っている。こうした風景は、たたづまいといった方が適当かも知れない。たたづまいは計画されてできたものではなく、周辺の自然との調和から生まれてくるものである。立ち去らないで自然とともにずっと居続けるといった決意から、たたづまいは生まれてくる。1400年も居続けもうすっかり風景になってしまったところに、瓦のほんとうの良さがあるのかも知れない。
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●瓦屋根の良さ
1400年以上も使われてきた瓦屋根は、良いからこそ使われ続けてきたと言える。瓦屋根は構法として防火性、通気性、断熱性、遮音性、耐久性に優れている。その良さを詳しく紹介することにする。
○防火性−内部からの火災は別として外部からの類焼が防げること。
江戸時代までの庶民の家は草葺あるいは板葺などが多かった。瓦葺が普及するようになったのは江戸という町の都市化と無縁ではなかった。江戸は当時としては大変住宅密集度の高く、火事があるとまたたくまに大火となり江戸中に燃え広がった。それを救ったのが瓦で、その瓦葺を推進したのが、時の八代将軍徳川吉宗であった。
○通気性−室内空気を入れ替え結露を防ぎ適度の通気ができること。
現代の住宅の欠点のひとつは、密閉度が高いということである。そのため室内に空気が淀んでしまい室内環境を悪化させるだけではなく、結露による構造体の腐蝕ということも十分に考えられる。住宅を長生きさせるためには通気性が大事である。そのため最近の設計では、ベンチレーション(換気設備)や窓の高低差を利用して、溜った空気を上に逃がすなど空気の流れを考慮している。その点瓦屋根は、瓦そのものに通気性があるのでありがたい。
○断熱性−夏の直射日光と冬の熱損失をできるだけ小さくすること。
瓦そのものは断熱性は、金属屋根にくらべれば極めて高いし、カラーベストと比べると厚い分だけ優れている。冬の熱損失については断熱性だけで比較できるが、夏の直射日光については瓦の優秀さは、断熱性だけでは説明できない。夏の日に木陰に入るとひんやりする。昭和56年8月に市川市で調査したところ、午後1時の日なたの気温が43度、木陰は31.5度で、その差はなんと11.5度にもなっている。瓦も瓦と屋根下地との間に隙間があり、ちょうど瓦の下は木陰といったことになる。
○遮音性−雨の音や風の音が苦にならないこと。
最近は地価が高いこともあって空間を有効に利用することが家づくりのテーマになっている。屋根裏に部屋を設け、子供部屋や書斎に使うケースも目だってきている。したがって従来はさほど気にならなかった雨音などの処理も今後は十分に考慮しなければならない。瓦は金属屋根材などは違い厚みのある材なので遮音性に優れている。
○耐久性−材質の変化や凍害などの少ないこと。
カラーベストなどの新建材は新築直後は美しいが、色あせがはやく汚れてきてしまう。とても風雪を経た瓦のように古色蒼然というわけにはいかない。メンテナンスをすれば良いが壁ならともかくとして屋根までは素人の手には負えないのが実際のところである。
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●気候風土にあった瓦屋根
瓦はもともと風土によって影響を受けてきた材料である。産地が全国に散在し、それぞれに特徴ある瓦を製造していることからもいえる。これは日本は良質の粘土がどこにでも産出し、たいした設備投資もしないで窯を造ることが可能だったからであろう。
瓦業界も最近は大手メーカーの大量生産によって集約化が進んでいるが、それでも昭和60年のある調査によれば、産地名をもつものが全国には50以上あるという。三州瓦などの旧国名を持つものから藤岡瓦、児玉瓦、深谷瓦や菊間瓦のように同一県内でも2つ以上存在する比較的狭い地域のものもある。その中でも全国的に有名な産地には、三州瓦、淡路瓦、石州瓦があげられる。
瓦は凍(いて)に弱いといわれるので北の方には産地がないかといえばそうではない。福島、新潟、石川、福井などにも広がっている。もちろん凍害を防ぐため高温焼成をして彩釉を施したものである。
歴史的な町並みを残しているところを訪れてみると、地域性はいっそう明確になる。北から南下して行くとまず北海道の函館や小樽の洋館の屋根瓦は和洋折衷の妙ともいえる。ただし北陸産が多いらしい。東北地方では、会津若松の北にある喜多方は蔵造りの街として明治期に栄えた。赤瓦がきらきら光ってみえる。近くの安田瓦である。関東では小江戸の情緒を残す川越は、江戸時代に栄えた宿場町で全体的に黒々とした印象を受ける蔵造りで棟には大きな鬼瓦がある。東海地方の伊豆の下田には、なまこ壁が多く屋根にも漆喰を塗り込めた例が多い。「伊豆の長八」の影響との説もある。中部地方では、名古屋市の有松は江戸時代の町屋が多い。当然三州瓦である。近畿地方は文化財の宝庫で実例は無数にある。京瓦、奈良瓦、泉州瓦ともに有名である。中国地方の倉敷も蔵造りの街である。喜多方にもみられるが壁にまで貼瓦が施してある。よほど中に高価なものがあったのだろう。
また国宝の岡山の閑谷学校は、備前焼の瓦が使われている。四国は菊間瓦。九州は長崎のキリスト教会の大浦天主堂も瓦葺で棟に漆喰が塗ってある。沖縄にみられる琉球瓦もあざやかな朱色で、白い漆喰との縁どりとのコントラストも美しい。
スペインに行けばその土地の土を焼成したスパニッシュ瓦の赤褐色が目につく。瓦は多くの町の基調色となっている。その土地に馴染む色が好まれたというより、その土地の土で焼成することによって、その土地固有の自然環境に馴染んでいるに違いない。いくつかの地方都市ではその町の屋根の色が決められ推奨されている。瓦も全自動生産がほとんどになってしまった今日では、その土地の土で焼く、だから個性ある風景になるといった期待は無理なようである。
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●もっと屋根に関心を
屋根は家屋の上にあるのになぜ根の字がつくのだろうか。一つには屋根の発生から来ているものと思われる。竪穴住居のたる木が大地にくいんこんでいたことを考えると、屋根はもともと根を持っていたと言える。この時代、屋根は建物そのものであった。しかし現代では屋根は根をはっていない。知合いの家を訪ねて帰ってきた時、天井の色と屋根の色は意外と記憶がないものである。床とか壁の色は意識しないでも、自然と目に入ってくるが、天井はよほど意識して見ないと記憶に残らない。したがって派手な色で天井を塗っても、結構気付かない場合が多い。誰も見ないのならどんな色でもということにもなるが、それでいて無意識になにかを感じさせてしまうので、安易には決められない。
屋根の場合もあまり意識されないので全く注意が払われないか、目だたないので派手な色になってしまうかの、どちらかである。しかし天井と違って屋根は町並みの構成要素なので、遠く離れて全体として見ると、一つ一つの屋根の持つ役割、責任といったものが見えてくる。
建物全体のシルエットをつくるのも屋根であるし、屋根をどうデザインするかは住宅の設計の中でも結構難しい部分である。
とくに瓦は一つ一つの大きさが決っておりその割方によって美しさが変わってくる。ちょうどタイルやレンガを使う時、目地をどう割り付けるかが極めて大切であるように、瓦も美しく使うには、かなりの技術が必要である。瓦屋根をきれいに使えたら一人前の建築家といってもよいのではないだろうか。
瓦は極めて古くから使われている材料なので、モダンな建物やモダンな住宅では、ほとんど使われることがなかった。もっぱら工場で大量生産された鉄とガラスが使われた。しかし最近になってモダンにもやや違った傾向がでてきた。一つはこうした材料、形態だけで作り出されるモダンデザインに対する疑問からきているものである。モダンが否定してきた材料を積極的に取り込むことによって次にくる新たなモダンを作ろうとしている。こうしたことから、瓦を屋根、壁などに使った建物も増えてきている。また瓦などの持つやさしいイメージも、瓦をモダンな建物に取り込むきっかけになっている。床など人が肌で接する部分に瓦を敷込んだりするなどが行われている。
瓦メーカーの中には、今こうしたニーズに合わせ、21世紀に向け、新たな瓦の開発を行っているところも多い。はたして1500年目の瓦はどのようなものになっているのだろうか。
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●今は少ない伝統的な窯
俗に「一土 二焼き 三作り」または「一土 二窯 三細工」という。これは製瓦過程の内で重要度の高いものの順位を示している。二の窯について述べる前に一の土について触れておこう。
土はその成分によって性質が異なり、良い条件の土を安定して大量に獲得することは現在ではかなり難しい。そこで数種の土をねかし、配合するかが重要なポイントになる。しかしスピードと低コストをねらうあまり、陰干しにして土の中のバクテリアを殺さず可塑性を増させるといった、「ねかす」という工程の簡略化も行われている。
二の焼きに関しては瓦の種類、窯の大きさ、粘土の種類によって多少の違いはあるが、だるま窯による方法が分かりやすいので、この方法で説明することにする。標準的な方法は次のようである。
(1)窯詰み 窯へ素地を積む。高級品は下から2段までに積む。
(2)あぶり
少しずつ温度をあげ、200〜250℃を10時間ぐらい保つ。この間に素地は徐々に脱水する。
(3)中焚き 450℃くらいまではゆっくり温度をあげ、550〜700℃で6時間ほど焼き続ける。
(4)本焚き 850〜1000℃まで温度をあげる。2〜3時間ほどかかる。
(5)練らし焚き 本焚きの温度を下げないようにして、さらに引き続いて焼く。この段階で瓦の内部までよく焼き締まる。
(6)いぶし 煙だし穴を閉じてふかし穴を作り、温度を100℃
くらい下がったところで焚き口と煙道を密閉する。
(7)窯止め 完全にいぶされたところで密閉する。窯内の温度は20〜24時間で少しずつさがる。
(8)窯あけ 冷たい空気が窯内にはいると、付着した炭素が落ちてしまうから、300℃以下になってから窯を開け、瓦を取り出す。
伝統的な窯には登り窯とだるま窯がある。登り窯は釉薬瓦を焼く窯で、だるま窯はいぶし瓦を焼く。現在、登り窯は数は少なくなったが、だるま窯は効率はよくないけれども良質な瓦が焼けるので使われている。
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●自動化された工場
瓦を積んだ台車を窯の入口からいれると、窯の前部には余熱帯、2階には焼成帯
後部には除冷帯があって、そこを超低速度で通過し連続焼成する。この窯をトンネル窯といい1日に1〜2万枚焼くことができ、ほとんど1年中火を落とすことがない。だるま窯が1〜2千枚の瓦を3〜4日で焼くことと比較すると30〜40倍の能力があるといえる。釉薬瓦といぶし瓦を焼くものがある。この窯の採用によって品質の安定はもとより、大幅な省力化と省エネルギー化ができた。
標準的な製造の手順を以下に示す。
(1)荒地出し
トラックで採掘場より運び込まれた粘土は、配合されたのち真空土練機で内部の空気を取り除かれ、均質な帯となって出てくる。
(2)成型(プレス)
荒地はほぼ瓦1枚の大きさに切断され、高圧プレス成型装置で瓦の形にする。
(3)乾燥
成型された瓦素地は、パレットに積み込まれ、窯の余熱を利用して乾燥させる。
(4)施釉
乾燥された素地にさまざまな色の釉薬がかけられる。
(5)焼成台車積み
施釉された瓦素地は台車に積み込まれて窯に入れられる。この作業は自動化される以前は最も人手を要した部分である。
(6)焼成
台車ごとトンネル窯に入れられた素地は、長さほぼ100メートルのトンネルを20〜30時間かけて通過するあいだに、1050℃前後の温度で焼きあげる。
(7)窯だし
焼成された瓦は冷却帯で徐々に冷やされた後窯の外へ以上の工程はすべて自動化されている。
(8)出荷
さまざまな検査の後梱包されて出荷される。
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●雨漏りさせない工夫
わが国は雨が多く、こぬか雨に包まれた町並みの風情は、なんともいえない日本的情緒のひとつである。とくにいぶし瓦は雨水によって徐々に灰黒色に変色し幾歳月を経て自然の深い味わいを持った色となる。
もう何年も前のことになるが、ある著名な建築家がもし絶対に雨が漏らない住宅を建てたかったら屋根だけで坪150万円かけるべきである。当時潜水艦を造るのが坪150万円かかるというのが理由だったのだが、それほど雨仕舞は難しいということを言いたかったに違いない。先達はどうしたら雨を防げるかを考え、工夫に工夫を改良に改良を重ねた。それゆえ雨仕舞にはいくつものバリエーションがある。ここでは雨仕舞の基本的な原理とその工夫を紹介することにしよう。
基本原理は、屋根面に降った雨が他にまわらずに順序よく流れることである。これはどんな屋根材の場合にも共通することである。また瓦葺の技術がどんなにすぐれていても、勾配、荷重や下地に無理のある屋根では長い年月を経るにしたがって大きな失敗を招く。屋根構造の良いことが基本の前提条件である。さらに瓦自身の構造が雨仕舞が良いことがあげられる。谷の深いものほど良く、対角にある切込みも大きく、瓦と瓦の重ね目が多いほど雨仕舞には有利に働く。釘穴の位置も重要で谷のところは当然避けなければならず瓦の尻に近過ぎると焼成の際、尻切れを生じるしあまり下の方に開けても上にかぶさる瓦の重ね目に近くなり注意を要する。
施工面の配慮は3つある。まず瓦の寸法を考慮して屋根の寸法を決める。これを瓦割りあるいは地割りという。しかし瓦業者は瓦割りが多少悪くても葺いてしまう。この辺が職人の腕自慢でもあるのだが無理に施工を難しくすることはやはり避けるべきである。
次に瓦の出というのがある。納まり、勾配、流れの長短や地域によっても異なるのだが、65〜90mmを広小舞の鼻から出すのが通例である。軒先瓦から流速によってはね出る水の勢いと、軒瓦の垂れの裏へ吸い込まれて回る水の慣性を考え、経験によって決っている。
最後に勾配である。これは経験値でだいたい決っているし実験もなされている。4/10以上すなわち4寸勾配以上ならば安心である。
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●台風でも飛ばない工夫
瓦が台風などで飛ぶことがあるといったレポートがNHKのウルトラアイで放送され、かなりの話題になった。業界とNHKとの間で活発な論争が行われた。結局大変な手抜き工事をした場合といった前提条件を説明しないままセンセーショナルに扱ったもので、普通の工事をする限り飛ぶようなことはないといったことで落ち着いた。
風に対する処置は、風がつけいる余地がないほど、整った葺き方をしていることに尽きる。少しでも崩れた葺き方をしているとそこから徐々に周辺へと波及する。常に屋根面が一体化していることが大事である。
古くから建築では、技術上あるいは意匠上の処理のことを「納まり」といい、文字どおりうまく納まるとかきれいに納めるというように使う。長い歴史の中で生き続けてきた瓦は、さまざまな納まりの工夫が続けられ現在の納まりに落ち着いたわけである。施工技術レベルではいわば完成の域に達した洗練されたシステムであると言える。
風で瓦を飛ばないようにするには、屋根下地に瓦をしっかり緊結することである。緊結方法は、土葺きの場合と引掛け葺きの場合によって違ってくる。土葺きは今では少なくなっているが緊結線じめによる方法が用いられる。また引掛け葺きの場合は釘打ちによる方法が一般に使われている。さらに全部の瓦を緊結する方法と部分的にする方法とがある。
・瓦桟 −1mm角ぐらいのもので材質は杉 桧のほか、最近では塩ビ製、金属製のものもある。
・釘 −亜鉛メッキ、銅、黄銅、ステンレス釘が使われる。鉄釘は腐食するため使ってはいけない。
・緊結線−留め付けるためのもので、亜鉛メッキ鉄線、コールタール焼付け鉄線、銅線、ステンレス線が使われる。
・葺土 −下地と瓦を密着させるための粘土質の土を葺き土という。葺土のかわりに漆喰やモルタルを使うこともある。以前は防水 材としてもなくてはならないものであったが、最近は住宅そのものをできるだけ軽構造としてコストを下げると共に乾式工法に よって工期の短縮を行っているので、葺土を少なくし、せいぜいなじみを置くくらいである。瓦の自重が重いことも耐風性には 利点である。桟瓦で通常葺き土なしで平米あたり50kg、葺き土ありで平米あたり100kg前後である。
とくに風が強い地方では、軒瓦、袖瓦、のし瓦、棟瓦と桟瓦の要所の継目に漆喰を盛る方法がある。良質の漆喰を使って 入念に施工された屋根にはある種の気品さえ感じられる。台風銀座とも呼ばれる沖縄では屋根全体を漆喰で塗り廻してあ る。
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●住宅の環境アセスメント
家電製品や自動車などの生産から使用、廃棄までの一連のプロセスの間に、その製品が環境にどのような影響を与えるかの、ライフサイクルアセスメントの研究が日本でも活発になってきている。住宅の場合に関してのこうした環境アセスメントは、これからようやくデータの収集や評価手法の研究が始まることであろう。その評価対象は多岐に上り、そうした要素と環境との関連を定量的に評価しようとすると、ほとんど不可能に近い。むしろ今できることから、今わかっていることから、一つ一つ環境への負担の少ない住宅に変えていく方が現実的であると言える。
こうした考え方で作成されたのが、英国の建築研究機構(BRE)の新築住宅のための環境アセスメント方法(BREEAM/New Homes)である。エネルギー供給源の違いや、建築形態の違い、住まい方の違いなどからそのまま日本での適用は難しいが、完ぺきなアセスメント手法の作成を待つ間にも、環境に悪影響のある住宅が建設されている。しかもちょっとした工夫でコスト負担もなく解決できる場合が多いことを考えると、こうした現実型の環境アセスメント方法の普及を望みたい。BREはイギリス最大の建築研究機関である。BREは政府、主として環境省のための研究および助言をおこなっており、650人ほどのスタッフを抱えている。さらに建築法規やBS規格制定に関連した調査研究も行っている。
BREは1991年に新築住宅のための環境アセスメント方法を制作した。このBREEAM/New Homesは、設計段階での住宅に適用される。というのもこの段階で環境に関わる仕様がほとんど決ってしまうからである。このアセスメントでは環境への建物の影響とか、環境へのマイナス影響を少なくすることができる建物の配置、設計、施工などに関しての評価が基本になっている。すべての項目を同じウエイトで評価するのは適当ではないが、そのウエイトづけはきわめて難しい。環境や住まい手の健康のためのコストは、理論的には算定することができ、個々の項目のウエイトづけの工夫も可能なはずである。しかし健康とかオゾン層の破壊とか温室効果による地球温暖化といった問題はあまりにも多様で、それぞれに環境へ与える影響の経済コストを割り当てていくのは困難であるので、こうしたウエイトづけは逆に勝手きままになりがちである。したがってそれぞれの項目は、個々の住宅の設計ごとに評価することにする。全部で15項目に関してアセスメントがなされ、個々の基準を満足した場合、クレジットが与えられる。最大は27ポイントとなっている。ここに挙げられた項目は、実際に危険であることが確証されたものに限っている。
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●環境アセスメントと瓦
BREEAMの住宅に関する環境アセスメントは、次のような項目からなっている。
・エネルギー消費による二酸化炭素の放出
・フロンガスの放出
・天然資源とリサイクル材料
・リサイクル可能物の収納
・節水
・敷地の環境的価値
・地域公共交通機関
・換気制御
・レンジフード
・住宅内の揮発性有害物質
・木材防護剤
・気体でない室内汚染物質
・照明
・煙感知器
・危険物と薬品の収納
このうち瓦や屋根葺材が関連したものについて紹介することにする。
(1)フロンガスの放出
大気へのCFCやHCFCなどフロンガスの放出を減少させ、オゾン層破壊と地球温暖化の速度を減少させる。断熱材料を製造する際に、これまで発泡スチロールや発泡ウレタンはCFCやHCFCなどフロンガスが発泡のために使われてきた。最近ではフロンガスを用いない製造方法を採用しているところが多くなってきているが、断熱材料の特性に関しては、オゾン破壊の心配があるかどうかメーカーに問い合わせる必要がある。
(2)天然資源とリサイクル材料
建物やビルダーが供給する造り付け家具などで、熱帯雨林など天然資源を使わないようにしたり、リサイクルできる材料の使用を増やすことと、リサイクルできない材料ではその効率的活用を図ること。屋根の葺材として材料の50%以上がリサイクル材か再利用材である場合やレンガやコンクリートブロックなど壁の組積材の50%以上がリサイクル材か再利用材である場合は得点が与えられる。
(3)水の節約
貴重な資源であり、ますますその重要性が増している水の浪費を減少させる。そのためには節水トイレを使ったり雨水槽を設けたりする必要がある。今後は屋根に雨水を集める機能も求められるようになるに違いない。
(4)気体でない汚染物質
アスベストやロックウール、グラスウールなどが原因となって、そう多くはないが時たま起こる健康危害を無くすようにする。断熱材として人工ミネラルファイバー以外のものを使った場合や、居室にファイバーを飛散させないような防止策を取ったり、建築施工が終わった時点で細かいフィルターを使った掃除機で清掃する必要がある。
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●太陽光発電と屋根
太陽電池は、1954年にアメリカのベル研究所のピアソン他によって発明された。1958年には人工衛星や灯台などの無人電源として実用化され、わが国でも1966年に灯台用として設置されている。1981年に太陽電池電卓が商品化されたことを契機として、太陽電池が急に身近なものになった。またエネルギー危機を契機に、石油代替エネルギー源の開発を目指してスタートした通商産業省工業技術院によるサンシャイン計画などの研究開発も着実に成果をあげ、1993年度よりニューサンシャイン計画が開始されている。
また1990年には電気事業法関連法令の改正により手続きの簡略化がなされ、1991年からはソーラーエアコンが電気用品取締法の適用対象となった。さらに1992年よりは、電力会社による余剰電力の買い取りが制度化され、逆潮流ありの戸建住宅の太陽光発電システムの設置が始まった。
太陽光発電システムは、太陽エネルギーを直接電気エネルギーに変換する半導体、すなわち太陽電池を使用している電源システムであり、以下のような特徴をもっている。
(1)クリーンな太陽光をエネルギー源として電源を構成しているため、環境汚染公害や騒音の心配が無い。
(2)無限で永久的に使用できる太陽エネルギーを利用しているため、燃料費が不要でランニングコストが少なくてすむ。
(3)堅固で耐久性に優れ、長寿命である。
(4)電力を必要とする場所に必要量を設置でき、設置する場所は地域に限定されることなく、太陽光が当たる場所にはどこでも設置 し使用できる。
(5)さまざまな規模のシステムが同一ユニットの組み合わせで実現でき、発電効率はシステムの規模にかかわらずほぼ一定である。
(6)可動部分が無く、静的な発電方式なので、メンテナンスはほとんど必要無く、運転の自動化、無人化が容易である。ただし、エネ ルギー源が太陽光であるため、季節や天候によって発電量が変動し、また夜間の発電はできない。また今のところ発電コスト は商用電力に比べ極めて高い。
政府は平成2年に「石油代替エネルギー供給目標」を閣議決定し、2010年度を目標年度とし、大幅な省エネルギー努力によるエネルギー需要の最大限の抑制、石油依存度の低減、非化石エネルギーへの依存度向上を進めることにしている。戸建住宅の場合、3kw程度の太陽光発電システムを設置すればほぼ電力需要をカバーすることができる。屋根面積にして30u程である。
太陽電池のコストダウンはかなり難しい。2010年でも一般への普及は無理ではないかといった見方もある。しかし太陽光発電の普及によって屋根の姿は大きく変わってゆくに違いない。
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●瓦の産地
瓦の年間出荷高は1500億円程度で、その製造は中小企業、零細企業によって行われている。しかしその性格は大きく地場産業型と地域産業型に分かれている。
三州、淡路、石州といった三大瓦産地は地場産業であり、地域の局地的な需要というよりは、広域的、全国的市場を対象にしている。こうした地場産地が生まれてきた背景について考えてみることにする。三州瓦の三河も淡路瓦の西淡も、さらに石州の江津も付近から良質の粘土が取れ、しかも江戸や大阪などへ船による海上輸送の便があるといった地理的条件に恵まれていたことが、大産地化のきっかけになっている。しかしそれだけの理由でこれだけの大産地が生まれたわけではない。瓦の製造は粘土と燃料さえあればどこでも可能である。地元の需要に応えるため、全国各地に地場の瓦産地があった。こうした地域産業としての瓦産地では、いまでもそうであるが製造施工一貫がほとんどである。年中とうして瓦施工があるとは限らないので、工事が少ない時期に瓦を焼きストックしておき、その瓦を自ら施工するといった方法が一般的である。したがってあまりにも消費地に近過ぎると、どうしてもこうした製造施工一貫システムからの転換がむずかしい。ガス器具もそうであるが、大消費地に近過ぎると生産者としての独立は難しいようである。リンナイ、パロマなど大手ガス器具メーカーが名古屋にあるのは、メーカーが大消費地から独立性を確保できたからである。東京や大阪のガス器具メーカーは、東京ガス、大阪瓦斯の影響力が強過ぎて、全国市場への展開ができていない。
瓦の三大産地である三州、淡路、石州にしても、ある程度大消費地から離れていたことが、幸いしているにちがいない。 これら3つの産地では、しばしば言われる地場産業に共通な特徴を持っている。
(1)産地形成がかなり古い伝統的産地である。 3つの産地の歴史はかなり古い。日本海に面した島根県の石州では、朝鮮から 日本への瓦の伝来は、実は石州に上陸してなされたのではないかと、信じている人もいる程である。
(2)特定の地域に同一業種が集中的に立地している。 三州では陶器瓦、いぶし瓦合わせて100社以上の瓦メーカーがあり、中 心となっている高浜市は、どこにいっても瓦屋といった雰囲気である。
(3)生産・販売構造が社会的分業体制によっている。 大量生産といっても標準的な瓦だけで、多くの種類がある役物はもっぱら 地域の下請企業によってなされている。さらに素材となる粘土にしても、専門の企業が採土、調合を行い供給している。また販 売もそれぞれの産地にいくつかの協販会社が設立されている。
(4)特産品としてのブランドを持っている。 もともと他の地域にくらべ良質な粘土に恵まれていたということもあるが、製品開発努 力にも比較的熱心で、今や全国ブランドとしての地位を築いている。
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●伝統は時流に合わせ続ける
瓦は建材の中でももっとも永い歴史を持つものの一つである。瓦が1400年もの長い間使われてきたのは、日本の風土合わせ、またそれぞれの時代のニーズに合わせるよう、たゆまぬ工夫、改良の努力をしてきたからである。一般に伝統というととかく古いイメージをもたれがちであるが、こと材料、製品に関してはそうではない。常に時代にマッチさせることから伝統は創りだされると言える。
先日テレビで江戸風鈴の職人のルポをやっていた。風鈴は1シーズンだけのものである。それだけに新陳代謝の早い製品である。だから伝統の江戸風鈴といっても、毎年が勝負である。「常に時代に合わせた風鈴を作ってきたからこそ、江戸風鈴は続いてきた。これからもニーズに合わせた風鈴を考えていかなければならない。」というようなことを職人が言っていたのには感激した。
青森にキノシタという大きな家具屋さんがある。むしろリビングショップといった方が適当かも知れないが、手広い商売を青森県だけでなく東北一円にやっている。レーザーディスクを使って婚礼家具の販売を最初にやったことでも有名な会社である。ここの社長さんは青森、弘前に映画館をたくさん持っていたが、戦後の結構早い時期に、そうNHKの「いのち」の舞台になった頃であろうが、アメリカに行き映画からテレビにシフトしていくのを目の当たりにして、帰国後映画館をたたみ家具ショップを始めた。
私の会社の社訓は「逆らうな流れろ」ということにしているが、この木下社長の人生訓も同じ様なニュアンスと聴き、大変は親近感を覚えた。瓦は逆らわずに時代に流れてきたからこそ、今に続いてきたのであると言える。
住宅のデザインの大きな流れは洋風化に向いている。もっと極端に言えば国際化かも知れないが、伝統的な瓦とはマッチしないデザインが求められるようになってきている。そこで瓦の伝統的な地位を維持するために、洋風住宅にいかに瓦を組み込むかも重要なテーマとなってきている。瓦=伝統=入母屋御殿といった連想をいかに断ち切らせるかが瓦の継承のためには必要である。
しかしいかに時代の流れに合わせることが一番だからといっても、時流の住宅に合わせるだけでは能がない。瓦はいつも時代から一歩遅れてしまう。
中国ではファッションのことを時装という。まさに時装瓦をいかに作るかが、瓦の伝統を継承する鍵である。時装となれば単に時流に合わせるといった消極的な態度では、結局時流に遅れてしまい、自らが時装を作るといった態度が必要であると言える。
すべての住宅には当てはまらないが、瓦が気に入ってそれに合わせて住まいをデザインする。そんな瓦もほしいものである。
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●大きな変化が瓦にも
瓦は全国各地で地場商品として長い間生産されてきたが、昭和30年以降には他産業と同様生産の集約化が進み、大きな産地が生まれて地場での生産は減少している。愛知県高浜市周辺の三州瓦、兵庫県西淡町周辺の淡路瓦、島根県江津市周辺の石州瓦が3大産地となり、全国生産高の過半数を占めるに至っている。それぞれの産地では自動化された工場が続々と建設されている。その多くは1生産ラインで日産2万枚といった規模で、まさに流れるように瓦が作られている。しかしこうして自動生産されるのは、あくまでも標準瓦だけである。役物瓦は下請け工場に素地までの加工委託をするか、そっくり外注するかが多くなってきている。したがって瓦の自動製造といっても現状は片肺飛行的なもので、問題を抱えていると言える。
瓦の役物はこうした製造上の問題だけでなく、デザイン的にも現代建築にマッチしにくいので、そろそろ見直してもよいのではないだろうか。和風の桟瓦の構成は、それなりの落ち着きと軽快さを兼ね備えている。しかし役物を載せた瞬間、あの入母屋御殿のイメージがついてきてしまう。もっとシンプルなしかも種類を減らした役物を考えてもよい。
NICS(新興工業国)ならともかくとしてもっか高度情報化社会の最先端を走り続けるわが国で、単に量産効率や既成の品質の良さだけを競ってもどうしようもない。むしろより付加価値の高い、よりニーズに応えた製品開発競争が必要であると言える。
瓦業界でも当然、この点については気付いているが、なにしろ歴史が長いだけに、あまり大胆な変革は顧客離れにつながるのではないかといった不安からか、遅々として進まない。
産業論的に見るといま瓦の置かれている状況は、実に興味深いところにある。昭和30年代から始まる瓦工業化の歩みは、他の製品に比べ比較的変化がゆるやかだったため、スローモーション的観察が可能である。しかも今もその変化の真ただ中にある。瓦産業の変化を観察することにより、わが国の産業変革のありさまを実感として捉えることができる。この変化で興味あるのは、一つは大量生産と手造りとの分化の拡大。もう一つは造ることと売ることの分化である。瓦に限らず昭和30年以後の建材産業の変化は、この2軸で捉えとわかりやすい。
瓦の場合まだ大量生産といっても、役物については手造りに依存しているが、今後の製品開発、量産技術の開発によってさらに分化がより明確に進むはずだ。他産業での大量生産と手造りの分化は、瓦のように量産に向かない部分の分業化といったものではない。瓦にもいずれそうした分業化からの脱皮が起こるはずである。
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●瓦の未来
最近地ビールが話題になっている。欧米では全国流通にのらないドメスチックビールがたくさんあり、これを飲むのが旅の楽しみの一つにもなっている。
いっぽう日本酒の場合、さまざまな地酒がある。こちらの方は伝統、そして流通という点でもかなり瓦に似通っている。カラーベストなど新生瓦がさしずめビールといったところである。急に地ビールといっても長い時間をかけて風土のなかで生まれてきたものと違って、少量生産ビールであってもなかなかドメスチックな味を作り出すのは難しい。
手作りの味を活かした瓦も、地酒と同様である。大量生産による均質な瓦と違って、ばらつきと意外性、造り手が特定できるなどから、今後も十分残っていくはずである。実際三州などの産地では、手作りだけの会社の方がベンツに乗ったりして結構羽振りが良い。
また造り手と売り手の分化はもっと早い時期に始まっている。もともと瓦は消費地近くの地場メーカーが製造し、施工まで行っていた。戦後の早い時期にメーカーと販売施工者の分離が進んだ。しかし他の建材と違い、製造のノウハウは蓄積されたが、販売施工のノウハウの蓄積は大きくなっていない。どこに瓦販売施工店があるのか知っている人がほとんどいないことに現れているように、売り手側からのアッピールはほとんど行われていない。
瓦を売るのではなく、瓦屋根を売るのだという意識はほとんど持たれていない。これではカラーベストなどに負けてしまう。今風に言うと屋根を提案できる店づくりが要請されている。このことはむしろ大量生産に走ったメーカーの責任でもある。作るノウハウだけでなく売るノウハウを蓄積し、販売施工店に供与しなければならなかったはずだ。
瓦がメーカーが販売施工に関してこれまであまり努力をはらってこなかったのには、それなりの理由がある。耐久性のある瓦を安く供給さえすれば、これまでは売れてきたからである。何も新しい瓦屋根を提案しなくても、その良さはわかってくれていた。しかしここ数年、瓦メーカーの動きも大きく変わってきている。葺き方も含めた新たな屋根瓦の開発、瓦製造技術を用いた新たな内装タイルや、舗歩ブロックの開発なども始まっている。
瓦の良さは確かに屋根で活かすのが一番である。しかし瓦の技術を使って屋根以外の部分も製品化することによって、屋根がすべてといった過去から離れ、屋根を建物の一部として見ることができるといったように、もっと大きな視点から瓦を見ることができるようになってくる。瓦の未来が楽しみである。
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